『走る道化、浮かぶ日常。』を読んだ日
九月というピン芸人が書いた『走る道化、浮かぶ日常。』という本を買った。
たまたま書店で目につき、鳩がかわいいという理由で買った。
試しにレビューを読んでみると、詩的かつ核心を捉えてる感想がわんさか出てきた。なんかもうあんま言うことなさそうだった。
そういうことで、わたしはわたしのことに引きつけ、アンサーエッセイのような形で感想を書こうと思う。
今回は、一章の「自分らしさはもうある」について私見をつらつら述べることとする。
散歩が好きだ。特に遠くに行くことはなく、ただそのへんをぼーっとしながら歩き回るのが好きだ。歩き回っていると時々、面白い物を見つける。
たとえば、誰が見るんだよと思うような、看板の下の小さい広告スペースとか、誰が買うんだよと思うような見たことない飲み物しか置いてない自販機とか、一体誰がデザインしたんだよと思うようなサイケデリックな町内会のビラとか。
そのほか、1箇所に集まりすぎている綿毛、白の面積が相場よりデカい鳩、なぜか転がっているネギなど、結構いろんなものに遭遇する。
そういうものを見つけると、ひとりでくすくす笑ったあとに、懐かしいような気持ちになる。前もたしか、こんなような事があったなと振り返る。
初めてその体験をしたのは中学生の時だった。急につんと青い匂いがして、ふと横を見るとぼうぼうと草が生い茂っていた。ひゅうと風が頬を撫でたあと、前にもこんなことがあったなと思った。
高校生になっても、大学生になっても、道が変わっても、街が変わっても、たびたび草の香りを感じて風が頬を撫でるたび、前にもこんなことがあったなと思うようになった。
わたし自身、あまり自分らしさというものにこだわりはない。自分は何者なのか、とか考えるのは面倒だなと思う性格だ。自己肯定感もそんなに高い方じゃない。
ただ、こうやって街を面白がるとき、過去のある一点と、今のある一点がひゅんと線で結びついて自身と呼べるものがかすかに浮きあがる感覚がある。
それはなんだか、自分の中にある自分自身を彫り進める彫刻のような行為に感じる。全体像がわかるのは死ぬ前なんだろうか。結果変な形のデカい墓石だったら嬉しいと思う。