果物ジュースが好きだ。母曰く「〇〇ちゃん(わたしのこと)がちっちゃい頃はりんごジュースをお湯で割ったものをよく飲んでたよ〜」とのことだ。なぜお湯で割っていたのかはアレとしても、幼き頃の舌は27までは続いているようで、今でもりんごジュースをはじめとするフルーツジュースが好きである。
ここ1、2年くらいの喫茶店ブームでフルーツジュースを前面に押し出したカフェもよく見るようになった。大変嬉しく喜ばしいことである。ただしかし、たまに見かける「いちごじゅーちゅ」「ばななじゅーちゅ」などの〇〇じゅーちゅ表記は、本当にどうにかならんもんかね。と思う。
こんな日常のブログを書いている身としては、もちろんひらがなに愛着がある。「好き」よりも「すき」と表記することに好感を持つし、お恥ずかしながら「パンナコッタ」を「ぱんなこった」と表記することもある。自分にはそういう種類のぶりっこ根性がある。
だからこそ、他人のそのぶりっこ根性に対してはある程度寛容でいたい。「いちごみるく」とか「やわらかぷりん」とかな。若干の共感性羞恥を感じるもののマァ許すよ。でも「じゅーちゅ」についてはちょっと話違くないか。
そもそも、ひらがなにすることって、要はある種の幼児化なのだと思う。あえてひらがなにすることで幼さ、あどけなさを演出し他人の心につけ入ろうという魂胆なのだ。とわたしは思う。
また、「す」を「ちゅ」に変換するなどの赤ちゃん言葉も多分同様の効果がある。アイドルが舌足らずっぽい話し方をするのとおそらく同じだ。たださ、そういう赤ちゃん言葉が効力を持つのって、紙の上ではなく音の上じゃないのか?
たとえば、私がぶりっ子根性を遺憾なく発揮して、半分とろけたような顔で「じゅーちゅ」と書くとしよう。途中までは順調に書き進めるはずだが、おそらく「ち」を書く時点で一度冷静になるはずだ。なぜなら「す」が正解で「ち」は圧倒的に間違ってるからだ。
もしこの致命的な間違いに気付いたら、( 少なくとも意図的にひらがなを使うようなやつの自意識ならば)止まってしまうはずだ。もしも、その状況で「ゅ」まで走り切れる奴がいたとしたら、そいつを突き動かすものは、ぶりっ子根性なんかではない。ただ走り切る覚悟がキマってるとしか思えないのだ。
もしくは、そもそも「す」と「ち」の区別がついてない奴の可能性もある。そいつの世界では鈴木はちぢきになる。いや、おそらく「す」と「ち」がわからないのだから、「き」と「ち」なんで尚更だろう。そうなれば、そいつの世界での鈴木はちぢちだ。怖すぎる。話が通じるわけがない。
ふと立ち返ると、そもそもわたしは「ふるーつじゅーちゅ」の表記をどこで見たのだろうか。パパパと調べてみたところ、この画像が出てきた。
まさか、この字体だとは夢にも思わず爆笑してしまった。失礼を承知で言うが、あまりにも、あまりにも覚悟が決まったバカが書く字すぎる。さすがミラクルボディVをこの世に送り出した会社だ。格が違い過ぎる。駆け抜けるパワーの風圧はぶりっ子根性とは真逆の、どこか爽やかさを感じさせる大ふざけからもたらされるものだったのだ。
途端に恥ずかしくなる。わたしは文章を書くのが好きだけど、ずっと頭の中でぐちぐち世間に文句をつけては、世間の顔を気にしながらユーモアを混ぜ込みつつ無難にまとめているだけだ。そもそもこのブログタイトルだって「ささくれを気にする」だ。しゃらくせぇ。このままじゃいつまで経っても、鈴木のことは「すずき」としか表記できない。走らなきゃ、走らなきゃなのだ。鈴木を「ちぢち」と言い切れるまでに。